撮影:エスエス
長崎は、旧市庁舎や旧県庁舎が存在した「馬の背」状の台地エリアを挟んで、海と陸の玄関口としての整備が進む「水辺のエリア」と古くからの文化や賑わいの中心である「まちなかエリア」という異なる性格のエリアがある。長崎市庁舎は、この2つのエリアをつなぎ、賑わいの連鎖を生むための施設となることが求められていた。新庁舎の建設地は戦後復興のシンボルとして市民が集う「長崎市公会堂」の跡地であった。その場の機能を継承し、誰もが自由に出入りができて居心地のよい空間を目指して、山下設計と地元設計事務所の建友社設計、有馬建築設計事務所の三社が一体となり、設計・監理を行った。
さらに、ワークショップを通じて多くの市民の意見を取り入れ、世界都市「NAGASAKI」の魅力を発信するシンボルとしての庁舎を目指した。
髙尾先生は、「地域計画家」として大学での研究活動等を行いながら、長崎市の「景観専門監」として市の職員とともに、長崎駅周辺整備事業、出島メッセ長崎、出島表門橋など、市内の様々な公共プロジェクトに関わってきた。地元設計者の平松氏・小松氏は、市の公共事業に髙尾先生が参画するようになって、「いい意味で媚びていない。さりげない所作で、きれいな景観が生まれている」と絶賛し、その職能としての役割を実感している。
本プロジェクトでは、プロポーザル段階から参画する形となったが、「市庁舎建替計画にあたっては、分散されていた役所機能を集約するという悲願もありながら、地元市民からの反対や疑問の声もあった。また、長崎の街の中心部に高い建物を建てることによる景観への影響について、市民に理解を得られるかが大きな課題としてあった。」と、当時の新市庁舎建設に対する市民の期待と不安を振り返った。
現在、市庁舎は長崎市公会堂(武基雄設計、1962年竣工)跡地に建っている。この建物は戦後復興のシンボル的存在で、保存の声もあがっていたが、現行の耐震基準を満たしておらず、総合的な判断の上で、その跡地が市庁舎の敷地として選定された。
プロポーザルにあたって筬島は武先生の文章を読み込み、「都市の中に市民の共有財産を創出していた公会堂の後に建つ市庁舎は、ひとつの建築として完結するだけではよくない。市民のための広場を設けるべきだ。」と感じていた。「将来的に旧市庁舎跡地の活用によって、より強くなる長崎駅からの連続性を「まちなかエリア」へと繋いでいく広場のような庁舎を目指す。」その発想から、1階はどの方向からも庁舎に入れて、通り抜けできる構成とし、庁舎東側には道路を挟んで隣接する市民会館前の魚の町公園と対となる広場を計画するアイディアが生まれた。
平松氏は、プロポーザルに取り組む議論の中で「既存のV字の軸(水辺の軸とまちなか軸)に対し、市庁舎計画による人の流れをつなぐ新たな軸が加わり、トライアングルになれば、長崎はもっと面白くなると直感した。」と期待感が生まれていたことを振り返った。
建友社設計、有馬建築設計事務所とのつながりは深かったと筬島は語る。「長崎県警本部(2017年竣工)の設計監理をこの3社JVで行った。すべてはそこから始まっている。このつながりがあったからこそ、市庁舎の設計もうまくいった。」さらに長崎警察署(2019年竣工)も有馬建築設計事務所との2社JVで携わっており、信頼関係を積み上げてきた。
基本設計の後半から実施設計にかけての集中検討期間に長崎の設計メンバーに東京に詰めてもらって、密な打ち合わせを行っていったことが成功の秘訣であった。小松氏は「この期間のコミュニケーションでお互いの思想に触れることができ、コンセプトからディテールに至るまで設計に対する共通の基盤がつくられた。」そして「東京は新しい建築がどんどんできている。これらに触れることができたのも大きな刺激となった。」と語る。
大塚も「JVメンバーの懇親会も兼ねて、都内商業ビルの屋上庭園を見に行った。そこで新庁舎の屋上のアイディアも醸成できた。フラットに意見交換しながら設計に挑めたところも良かった。」と振り返る。東京での協働期間を経たことで、東京・長崎に分かれてからもスピード感を持って、円滑に意思疎通ができたという。
基本設計段階で実施された市民ワークショップは、市庁舎計画に疑問の声もある中で、ひとつの山場であった。髙尾先生は全体のファシリテーターを務め、各市民グループにはファシリテーターとして街づくりを学んだ市職員やJVメンバーを配置し、万全の体制で臨んだ。
髙尾先生は「本当に様々な意見が出た。5回のワークショップと1回の市民シンポジウムが終わった後に、その数1000に及んだ意見ひとつひとつを市の担当者と設計者が「これまでにすでに議論され方針が決まっているもの」「基本設計で反映するもの」「実施設計で反映するもの」等にきめ細かく分類し、市民へ丁寧に説明し、誠実に対応いただいた。」と振り返る。その後のシンポジウムを経て、市民の庁舎への理解がだんだんと深まっていった。
市民ワークショップ:長崎市提供
様々なプロセスにおいて、市庁舎はなぜ必要なのか、なぜこの大きさなのか、なぜこの形なのか、といったことに対して理詰めで説明を行っていく中で、最適解が導き出されていった。
施工段階の内装プレゼンでは、応接室について、市から「長崎らしさを感じる、より高いレベルのデザイン提案がほしい。」とのリクエストがあった。工事も進んでいる中、突然の「追加要望」に対し、慌てて取り掛かるJVメンバーだったが、「ここで安直にレンガを使用せず、さらなる長崎らしさを追求できたのはよかった。」と筬島は振り返る。
設計に続き、現場監理を担当していた大塚と小松氏は議論を重ね、長崎市産の木材と長崎港の海を表現する壁面デザインを提案した。その後、市側から地元工芸品の長崎ビードロガラスを使用したいとの要望を受け、地元のガラス職人やデザイナーとも意見を交わし、デザインに反映しながら壁画造作を作り上げた。大塚も「小松さんがいなければこの発想には至らなかった。」と語り、デザイン判断を市から依頼されていた髙尾先生も「これこそJVだからこそ作り出せた長崎らしさだった。」と感嘆した。特に第二応接室の長崎の四季と、三方を山に囲まれた長崎港を表現した壁画の造作は髙尾先生のお気に入りのひとつだ。
2023年3月、広場のような庁舎を目指した新庁舎が完成した。
筬島は長崎県警本部を設計していたころから、浜の町と海辺エリアの空間的な関係、つながりがわかりにくいと感じていた。それは岬状の台地によって2つのエリアが分断される計画地周辺の特徴的な地形によるものであった。
小松氏は「それぞれのエリアで生活が完結できるので、わざわざ坂を越えて買い物に行く必要性は高くなかった。だが、新庁舎が台地の脇に来たことで、新たな流れができた。」と語る。
「新庁舎ができたことで路面電車の2系統が繋がった感覚がある。」と平松氏。髙尾氏も「新庁舎南側の通りはもともと賑わいの少ない雰囲気だったが、今では人の流れの新たな拠点となっている。」と評価する。大塚氏は「庁舎内も広場のようにどこからでも入れるようにと四方に入口を設けたが、新たな人の流れに面した南側からの出入りが予想以上に多かった。」と驚きを隠せない。市庁舎ができたことにより人の流れが大きく変わり、繋がりが生まれたのだ。
また、長崎市街の計画では、稲佐山や様々な視点場から「どのように見えるか」が景観上の重要なテーマとなる。長崎市街は周囲を山で囲まれ、円形劇場の様な地形をしている。JVメンバーは円形劇場の縁に位置する様々な視点場からのパースを作成し、見え方を検討していく一方で、庁舎最上階に展望回廊を提案した。既存の視点場はまちや港を一方向から見下ろすものであったが、長崎の地形・まちなみ・風景をまちの中心から360度一望できる新しい視点場により、「新しい長崎らしさ」を体感できる場所を創り出した。
展望回廊にはよく人が訪れていて、高校生のデートスポットにもなっているという。大塚は設計に携わる前から「観光客」として長崎に何度も訪れていた。「外部から様々な人が訪れることも長崎らしさ。普通の自治体であれば特産品が置いてあるのはよく見るが、ここは眼前に広がる港の風景をはじめ、いくつもの風景資源があり、贅沢。」と述懐する。
筬島は、経歴としては都内よりも地方の仕事が大多数を占めている。「地方のプロジェクトは、都内のプロジェクトより規模は小さくても、その地域に与える影響がはるかに大きいため、まち全体を考えることが重要になる。そしてJVメンバーをはじめとしたさまざまな立場の方々との濃い関係性も生まれる。それが魅力であり、楽しさ。」と語る。
髙尾先生は、「地元設計事務所とのJVが、外と内の良好なコラボレーションを生み、長崎の良さを生み出せた。このような取り組みを引き続き広めていけるようにしたい。」と述べた。自身の景観専門監としての役割を「化学反応における触媒」と評価する髙尾先生らしい感想だった。
長崎は今100年に1回の大改造を進めている。長崎駅、県庁、県警本部、これらはすべてのプロジェクトがほぼ同時期に行われた。
新庁舎はこの大改造の中核として、市民財産を継承するかたちで最適解を示しながら、今後も開発が進む駅ビルや、庁舎跡地の新たな計画をはじめとする、未来の長崎の変化を見守り続けていく。
撮影:エスエス
株式会社 山下設計
副社長 執行役員
関西支社長 筬島 亮
地域計画家
長崎市 景観専門監
一般社団法人地域力創造デザインセンター代表理事
髙尾 忠志
株式会社 有馬建築設計事務所
取締役 小松 弘幸
株式会社 建友社設計
代表取締役 社長 平松 晃一
株式会社 山下設計
設計本部 第2設計部
主管 大塚 直
※所属・役職は2023年10月現在